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明石家さんまのご長寿なんたらみたいな番組ありますよね。あれの、 おじいちゃんおばあちゃんが、かつての自分にメッセージ送るやつ好きなんですけど、 あれみたいな気分で日記を書いてます。投稿してから3日間は校正期間。

女性の背中

 

 

 

さて書くこともないのにメモを開いて打っております。兎にも角にもブログを更新しようというわけ。

 

 

生コンサルタント女から「銭湯」とだけ返信が来たので、銭湯について書こうと思う。

 

そのうち書きます、と言っていたテーマではあるが、深いことなど殆どない。詩のように残す努力はせず、写真のように、風景の描写をすることで満足とする。

 

我が家から北に、自転車で5分ちょっと。八百屋の脇の道を通って、大きな道にあたったら左折。しばらく直進、左側に区立の大きな公園、そのまま直進。

 

私の家の最寄り駅とその路線とは違う、北側のご近所駅の、その踏切を超えて、商店街のすぐ1本目を曲がればいつもの銭湯である。最寄りの銭湯は徒歩5分なのだけれど、精神的最寄り銭湯はここ。

 

目指す時間はきっかり18時。その時間を15分過ぎそうなのであれば、諦める。人に迷惑をかけないことで、こんなに時間きっちり守っているのはたった一つ、これだけ。人に迷惑をかけてでも遅刻するのにね。私と待ち合わせを繰り返ししてきてくれた全ての人間の、1年で1番晴れてほしいと願う日が、この先ずっと晴天になりますように。

 

駐輪場はない。銭湯と、その横並びにあるコインランドリー沿いに斜めに停める。せかせか子供のヘルメットを外して、小走りで入っていく。靴箱は、なんとなくアンラッキーな感じのする数字は避ける。それ以外の数字で、なんとなくいい語呂の響きがありそうなものを選ぶ。

 

玄関からいきなり男女左右の扉に分かれて入る。女は左。私の子は、「女性」という言葉に特別な意味を持たせているように思う。「(この服)ジョセイみたいでしょ」なんて使い方をする。なんていうか、「雌」の上にリスペクトの段差があるようだ。「あんねぇ、赤ちゃんもおばあちゃんも、男じゃなけりゃ女性だよ。生まれた時に決まっているの。心とは別なんだけれどね。」なんて話をしたけど、分かったのかな。別にわからなくても良いけど、ふとした時に誰かを傷つけたりしないように。

 

「女性」用の扉に入ると女将さんが右手番台に。「こんにちは〜」の声が3種類重なる。五百円。子供は大人1人につき、1人?無料なので、きっかり五百円。「タオル2枚ください。」

 

子供をトイレに行かせる。子供は、出先で1番嫌なタイミングを待ってモジモジしだすものである。そんな時「なんで今!!!!!!!」と、ひりつくのは仕方なしとして、叱るのは違うわけ。親は自分がいくらスッキリしていても、常に気を張り「1番然るべきタイミングで」子供をトイレに連れて行くのだ。こういう仕事のストレスは、誰にも褒められない。子供の笑顔を糧に、明日も生きていこう。

 

子供はどんどん脱ぐ。そりゃそうよ、子供は全員美しい体なんだから。天使の頃。大人だって、皆それぞれの美しさ、と言っておきたい性分なんだけど、自分の体をまだあんまり気に入ってないから、嘘になってしまう。気に入ってないけど、誰にも憧れてないし、嫌っているわけでもないからどうしようもない。そういう心地の悪さである。

30年も生きれば、体の表面的なデザインや触り心地は、内面の表れであるように思う。私たち、というか、私の外側と内側は、結局のところ気が合うのだろうな。そうであるならば、無理矢理気に入ろうとするもんでもないだろう。

 

私もそれなりにどんどん脱ぐ。すっぽんぽんになる結果よりも、「脱ぐ」その過程の方が、ずっと恥ずかしい。いつも迷っている。乳首を見せた状態でパンツを履いているのと、パンツを脱いだ状態でTシャツを着ているのと、どっちが違和感あるかなって。結局いつも最後にぐいっとトップスを脱ぐ。

 

子供用のおもちゃが風呂場の入り口脇にある。子供はその中からいくつか選び取る。「そのくらいでもういいよ。」

子供用のものが用意されていることへの、感謝と尊敬。レストランに置かれた子供椅子の優しさ。いつも、子連れの肩身は、ひどく狭い。

 

すっぽんぽんになってすぐは、ちょっとだけ猫背になる。密度の低い場所に席をとって、体を流す。そのうちに子供は早速挨拶回りを始める。

 

いつメンの女性たち。顔見知りの全員が、私の母より年上である。だからわざわざ年齢のわかるような呼び方で区切る必要はない。祖母の世代前後が多い。母親世代の何やら強気なイケてる人もいる。味方にいて欲しく、決して敵にしたくないタイプ、の、パーマがかかっている。ごっついスタイルが良い人である。和の中心となるボス(おおらかなる、あくまで陽気な)は、もうだいぶ小さくなっている。小さいけれど、大きな華である。初めて行ったその日から、するりと彼女の傘下に入ったような感覚があった。嬉しかった。

 

はちゃめちゃに熱い。「あっちい!無理だ〜」なんてぐずぐず言っていると、ボスから毎度、「あっち側がぬるいからあっちから入れ」とか「さっきお湯が変わったばっか」とか言われる。言われるためにぐずっているだけ。

 

いつメンの一人、ふわりと柔らかい顔の方も熱がりで、腰を落とせず一緒に突っ立っている。子供は割と熱さに強い。「すごいね〜、よく嫌がらずに長く入れるもんだ。」

 

時々入浴剤で色が楽しくなっていたりする。季節によってゆずが入ったり。

 

風呂場の中のことなどあんまり書くことがない。長く入っていられないし、おそらく18時は多少遅刻気味で、いつメンたちが先に上がって行くので、追いかけるように私たちも上がってしまう。1750分を狙うと良いだろうと思うけど、ルーティーンを崩すの、嫌だな。どちらかというと、誰かにとっての「18時にくる親子」になりたい。

 

「はいはいよく拭いて」

 

浴室から上がったその場でまずはよく拭きましょう。

それでもロッカーの方まで行くと「あら全然拭けてないじゃないの!」

 

脱ぐのはどんどん済ませるのに、着るのはタラタラ進まない。のぼせているっていうのもある。

 

ロッカーはいつも溜まり場の真横を選ぶから、最低限着替えてソファに腰掛ける。長方形のローテーブルを挟んで、2台の長ソファ。ぼーっとしながら、なんでもないことを話す。いつメンたちは、皮膚科のジャーに入った軟膏や、何やらスースーするものを腰に塗ったり貼ったり、手伝いあっている。子供はパンダ銭湯という絵本を毎度読んでいる。絵本がそれしかないもんで。

 

子供は番台の前に売っているジュースを欲しがる。ジュースがあれば欲しがるのが子供の仕事である。なんか、なんか、リンゴジュースより、いちごオレよりマシな気がして、いつもR-1を飲ませている。何がマシなんだよ。時々ポカリスエット。どうしても自分が飲みたい時はオロナミンC。プッハー、という、気持ちで飲む。

 

「もう帰りたくないよ」「ご飯はもう作れません」

なんてこぼしながら、いつメンと天気に文句つけたり、テレビを見たりする。

 

そのうち「髪乾かしなさい!」とボスに怒られるので、一回ぐずってから、念押しを待って渋々乾かしに行く。20円で3分。2分で飽きるので、早く終われや、といつも思う。髪をばっさり切ったので、早く会いに行きたい。髪を乾かしなさいと言われなかったらしんどい。欲しい。

 

みんなそれなりにソファに居座っている。後からきたお客さんも、半数以上はボスに挨拶する。先に帰る人も挨拶していく。ボスというと嫌味かもしれないが、存在としてはお地蔵さんみたいなもんである。

 

お地蔵さんが腰を上げたらいよいよ私たちも帰ることにする。もうのぼせきって勘弁なので、お弁当を買って帰る。

 

家の北側に、名前を知らない家族を持つ感じ。あんまり褒められたりしない。感じよくせっつかれるだけで、それがいい。彼女らがほんのり私たちのことを好きだというのが分かる。大変に幸せである。

 

ずっと年上の「女性」に囲まれている。私は彼女らをほんのりリスペクトしている。その裸の背中に、雌とは全く違う意味で、ああなりたいなと、確かに段差を感じるものである。とても大切な場所と人たちなんだけど、ある日誰かがかけたとしても、寂しくない。そのくらい、揺るぎのないもの。

 

 

 

 

叱るということのやり方がわからない

 

 

 

昨夜子供と喧嘩をした。

私の子供は「未だ」5歳なので、29歳との意見の食い違いで争う場合は、基本的に教育や躾に分類されることが多いと思うのだけど、あえて喧嘩としておきましょう。

 

最近、人と意見が食い違う時、私はわざわざ「喧嘩だね」と定義することにしている。

理由は色々あれど、子供との場合は

・上下関係を見失っている

・叱る ということのやり方がわからない

大まかに分けると、この2つ。

 

「喧嘩だね」は煽りである。あなたを正すつもりはないよ、言いたいことがあるなら言ってきなよ。ほらかかってこい。これである。29歳。今週中に30歳になる。

 

昨夜喧嘩した余韻があるうちに、キーボードを叩いておく。なんだか分からないけど、昨日感じたことはちょっと整理しておいたほうが良いかな、と思って。基本的に私と子供の世界は我が家に二人きりで、実家が近いわけでもないから、子育てのあり方について評価されることはほぼなく、あったとして私のダメな部分に寛容かつ長所を見る目に優れている友人たちからの言葉くらいなので、「一般的な」「常識的な」「社会的な」視点で我々のことを捉える機会が少ない。

 

けれど昨日は事情が違って、喧嘩中の私たち二人の横に、私たち二人以外の人がいたので、事の最中ほぼ無視していた存在ではあれど、その視点からどう見られているのか、子との沈黙の間にちらと考える隙もあった。

 

私は私の生き方についてそれなりに真面目で頑固なので、他者に見られているくらいで言葉を変えたり態度を変えたりはしない。それでも絶妙な心地悪さがあって、それはまさに「一般的な」「常識的な」「社会的な」あるいは「倫理的な」何かに背いているのではないかという、後ろめたさだったように思う。

 

早いところこの心地の悪さを整理しないと、本日の雨も相まって一日中寝込むことになるから、考えのまとまらないうちに湯船でメモパッドを開いている。ここに書かれていることは現段階何も決定的ではない。頭で考えていることが指先から勝手に出力されていて、それを読みながらおそらくちょっと別の部分で「へぇ」と思っている自分がいるから面白い。以下、何も整理されてない生物の文章が続く予定。読むの疲れると思う。締めくくるまでにスッキリとしたら良い。雨だろうと、少しは仕事をしなくてはならないから。

 

考える前提として、我が家が「二人きりである」ことについて念頭におく。その時点でまずは「一般的」ではない。特に、子を持たない、片親に育てられていない、当事者以外にとっては、それだけでも大きく常識とは変わってしまう。それでも私が子育てについて「一般」をそれなりに意識したいのであれば、見られている相手が当事者でないからと言って、その視点を排除するわけにはいかない。難しいね。

 

一般とはなんぞや。一般的な子育て、一般的な母、一般的な家庭、なんぞ。一般とは誰が決めるのか。私の育った家庭が一般的でないことはなんとなくわかるのだけれど、私の友人の、父も母もいて、兄妹もいる、その家庭が、果たして一般的なのか分からない。なんか、つまらない議題に思えてきた。好みじゃないかも知れない。あるいは今じゃないのかも知れない。

 

ああ待って、「二人きりである」という前提だけ念頭に置いて、それ以外のことはまだ早い。まずは内側のことを見てみよう。のぼせる前に風呂から出ないと。

 

まず、上下関係を見失っていることについて。ここの意識が乏しいのは確かである。理由は明確で、私のできることと、子供のできることが大きく異なり、子供は一人では生きられないが、「全く同様」に私も一人では生きられないから、である。

 

私はお金を稼ぐ。彼女は稼げない。

私は高いところのものを取り、重い荷物を持つ。彼女は程度の限界がある。

私は数字の計算をする。彼女は程度の限界がある。

私は役場に手紙を返す。彼女にはできない。

私は食事を用意する。彼女にもできる。一人でヨーグルトにグラノーラを乗せる。十分。

私は洗濯物を回す。教えれば彼女にもできることである。彼女は自分の服を畳んで仕舞う。

彼女は風呂を沸かす。風呂の掃除をする。私はそれを面倒くさがる。彼女は私に強要しない。

彼女はスーパーで野菜や肉を選ぶ。驚くことに、私にはそれができない。

彼女は諦めることができる。人に新しい提案もリクエストもできる。私にはできない。

彼女はきっと夜一人きりで眠ることができないし、私も夜一人きりで眠ることができない。

でも二人が一緒に暮らせば、困ることは滅多にない。

 

掃除が得意で料理は不得意な男と、掃除は不得意で料理が得意な女が結婚して、お互いの強みに感謝できるのであれば、何か不都合があるのだろうか。私たちは二人きりなので、私のできない部分を甘やかしてくれる成人パートナーはいない。私は上下関係を忘れて、彼女に寧ろ子供以上の振る舞いを求めることが多い。

 

それでも、未だ、家のシステム作りは私の仕事だ。寝る時間や遊ぶ時間、役割分担、ゆるいけれど倫理的なものもその一つ。これらは守っていただかなくてはならない。それは、上下関係の上で私が指図するのではなく、パートナーとしてやってほしい。そのうち、子供がもっと、合理的な、そして二人のためになるようなルール設計をできるようになるのであれば、彼女の年齢が幾つであろうとお願いしたい。

 

しっくりこないけど、「親としての自覚」みたいなもの(知らん)が足りないのかも知れない。確かに、責任逃れっぽいような気もする。それでも、我が家のこの部分について他者から苦言があるのであれば、親として云々ではなく、私自身の丸ごとを見て批評してもらわなくては。同様に、私がこの関係性に無理を感じて苦しんだり苛立ったりした時には、まず自分の「できていない部分」を見つめる作業から始めよう。時には棚にあげて指摘しなくてはならないこともある。彼女が私の居場所から離れて、また誰かと暮らすとき、相手の不得意な部分を苦しまずに補ってやれるように。また、自分の中に不得意や無理を見つけたときに、自分の強みに自信があることで、軽やかに人に甘えられるようであってほしいと思う。

 

たった今気づいたのだけれど、私も母にそうやって育てられたかも知れない。私より責任感の強い、また、貧弱でナヨっと見えるにしてはタフな母ではあったけれど、私たちの中に上下関係を感じたことがない。常に意見を交換し、ねじ伏せられたことはない。物理的に争ったことも多々あるが、暴力を受けて育った記憶はない。

 

年齢的にも、関わりからみても、姉妹のような友人のような、パートナーだった気がする。すごく趣味が合うところもあれば、全く相容れないところも多い。私は格別に親に迷惑をかけるタイプの子供だったと思うけど、私も私なりに、内には早熟な部分もあって、彼女が幸せであれるように、自分のできることをしてきたつもりである。

 

そこには私たち親子のそれぞれの辛さもあったと思うけど、今になって私はその生活をそれなりに気に入っていたことが分かる。

 

追い焚きしないと凍死する。肩があのやたらハッピーな歌で盛り上げてくれるアイスクリーム屋さんの鉄板位冷たいし、鼻水も出てきた。胸のちょうど下までしかお湯がないから、追い焚きっていうか足し湯したほうがいい。乳首に申し訳ない。

 

あとそれと、叱るということのやり方がわからないことについて。もちろん大きな声で注意したり、時には叩くこともあります。でも、分からない。分からないことはまず調べましょう。Google行ってきます。ググるとか言わないよ、なんか恥ずかしいからだよ。

 

【叱る】 相手の非を咎め、厳しく注意する。

 

だって。怒る、だと人間一人で完結することもありそうだから、叱る、だろうね。うむ。意見の食い違いで争うことは、一般的に、子供と大人の場合「喧嘩」じゃなくて「叱る」になるのでは、みたいなこと冒頭に書いたけどさ、私の感覚では、子供相手に非をとがめるん?て感じなんだよな。なんだろこれは。自分の意見に自信がないからなのかな。もはや母親としての自分自身に後ろめたいのかな。

 

待って今度は暑すぎる。のぼせる。一旦上がりましょう。夏場ってソフトクリーム食べたくなるけど、ダラッダラ溶けて嫌になるよね。でも私は、クリーミーなバニラソフトクリームより、水分を感じるシャバっシャバなミルクソフトクリームが好きなの。その溶け方みたいなさ、汗がすごい。甘くないけどね、風呂の水で塩が作れそうな位しょっぱいよ。汚い話するな。上がるね。

 

うわーーーーーー助けてくれ。風呂から上がったら干してない洗濯物が床で寝てやがる。どうすんのこれ。

 

はい、やりました。

 

子供があらゆる間違ったことをした場合。それにはいろんな種類がある。まずは、ほんと、一般的に、ダメなこと。電車の席に靴で上がってしまうとかね。これは大きな箱だと「一般的ダメボックス」だけど、その他常識的、社会的とも言い換えられるよね。またちょっと違う角度だけど、倫理的にもダメだよね。これは、「教える」でクリア。私の好みは「次座る人が嫌な気持ちだよね」など、一般的ダメボックスのものは他者を絡めて説得するやり方。子供からしても大体「そっかあ」みたいな感じ。非を咎め、厳しく注意しなくても良さげ。わかっていて、尚やるのであればいよいよ叱る必要がある。(子供の場合、その状況になることがあまりない気がするけれど)私の場合は、声を大きくしたり、手を強く握ったり、電車から下ろしたりするのかもしれない。でも私にとってそれは、自分の語彙力とコミュニケーション能力の不足で、その行為を「叱り」と定義することに恐れがある。(ここがちょっと変わっているかも)

 

ダメなことは「親が大きな声で怒鳴るから」「叩かれるかもしれないから」辞めるんじゃ、いけない。なぜ、ダメなのか、親の説明を聞いて、「じゃあ私やっぱりしたくないかも」と思えた方が強いと思っている。

 

物を盗んだり、人のものを壊したり、こういう行為があった場合も、究極に「ダメ」なんだけど、結局理由を聞かないといけない訳で、人にものを聞く姿勢として、初めっから厳しい態度でいるのもちょっと難しいよね。相手に嘘をつかせる恐れがあるんで。

 

他にも、倫理的に間違ったこと?倫理ってなんだかよくわかってないんだけど、一般的なルールというより意味合いとしては道徳に寄っていく感じ?ええと、「(私の)倫理」の出どころは、善悪思想に由来する、精神の心地よさみたいなイメージ。正しいことをしている心地よさ、反対に間違ったことをしたときの心地悪さ。定められたルールよりももっと自分基準だよね?利他的な方向ではあるんだけど、自らも精神的に健やかに生きる上で必要な選択をするための善悪?でも結局社会的に評価されるものだよね?お気持ちに任せる雰囲気にしては外側からすんごい見られてる焦りみたいなのあるよね?にほんご大丈夫?広辞苑出てこいよ。

 

木に成った、木の実を取らせるか、取らせないか。「やめてね」と言った時、大きく反抗するでもなく「なんで?ほいくえんのおともだちはするのに。せんせいはダメといわないのに」と聞き返してくる。「誰かが世話をして大切にしているものだから。木が頑張って赤くした物だから。その実はあなたの耳と同じだから。」というと、納得し、古くなって落ちたものを拾い始めた。これが起きたのは昨日、自宅アパートに設立された小さな花壇の木の前だったので、実際には「ルール」に近い条件だったわけだけど、これが大きな公園だったり、山登りの最中だったりすると、感覚的にはもっと倫理に近づくだろう。また、その対象が、猫じゃらしやタンポポになるとどうか。

 

倫理的な問題は、大人だって容易に解けるものばかりではない。正解不正解とは別の場所にあるわけなので、「非を咎める」ような形で注意することができない。私の場合は特に、どのような事象に対しても、確実な根拠の用意がないからだ。意見もない。カンペもない。その場で考えなければ。でも、大体そういうものでしょう。だから親って大変なんでしょう。皿洗いや掃除で、手が乾燥すること以上に。

 

他に、危険を伴う間違いがある。白線を超えて歩くこと。友達の近くでレゴブロックを投げること。知らない人について行くこと。理解のないスイッチを押すこと。人が一日中忘れられないような暴言を吐くこと。ようやく、叱るという言葉が似合う(私にとっては)程度のものが出てきたね。いらっしゃい。なるほど、危険が伴うことは、叱る必要がある。

 

なぜか。

 

子供は「知らない」からである。その危険を、私たち大人は知っていて、子供は知らないからするのである。大人にとって、その危険を回避することは、倫理的な間違いとは異なり、当たり前で、明白なのだ。この時、子供と私との差は、年齢や関係性ではなく、無知と知のみである。ならば結局「教える」なのだ。教えなくてはならない。当たり前のことを、いちいち、いちいち、この容易く生きられぬ生活で疲れている日も、眠くても、他のことが心配でも、いちいち、いちいち、何度も何度も何度も何度も教えなくてはならない。使う言葉が違う、言葉を扱う能力が違う生き物に、何度も工夫して教えなければならない。その疲弊と焦りと、危険が伴うときは特にその緊急性が、人を「叱らせる」のかもしれない。私の場合、緊急ゆえに、半ばパニックなのである。その姿が、嫌なんだ。

 

叱るという言葉に、違和感、大袈裟にいうと嫌悪感も持っていたのだけど、何より大切なのは、子供が心身ともに安心して暮らす生活。危険(先に挙げたように、大意である)を伴う問題に関しては、何事も「喧嘩」と称して対等であろうとする私も、責任持って叱る、すなわち正しいことを正しいと言い切る姿勢で教えていかなくてはならないな。一通り、考える時間を持ってみたけれど、やはり、ここに書かれていることは現段階何も決定的ではない。ただ、子供を育てる上で、関係を対等に捉えることは私や私の家族の中では一つの正しさだと思えること、やはり心地の良い答えは「一般」の中から見つけられないこと、対等とは別に、叱ることが必要な事案があり、自分の中でカテゴライズが済んだこと、叱るためには対等関係の時の意識とは別の感覚が必要になることなど、見えてきたものもあったね。

 

叱るの色は、怒るの色と全く異なる。そこに相手への愛がなければ、全く成り立たないものである。そこに愛はあるんか。

 

 

 

 

パンが焼けるまで待つ

 

 

 

さて、年が開けました。

卯年です。

 

私は酉年。娘もお揃い。それで、娘の名前には鳥を意味する漢字が入っています。少し難しいんだけど、美しいです。素直に、自由に飛んでいってね。無邪気に遊ぶように、それでいて、決して自分を見失わないように。そういえば私の名前はtreeだ。

 

 

母が年女。あれ、今年48歳になるの?思ったより、いってるね。彼女は「子供が30になるとか無理すぎ」みたいなこと言ってたけどお互い様だよ。

 

年末年始は実家に帰ってゆっくりしました。私が実家と呼ぶのは母の家ではなく、祖父母の家です。家族との会話では、「ちゃーちゃん家」と呼びます。祖母や母親のことをちゃーちゃんと呼ぶのは、方言のようなものだと思うけど、限られた地域ではなく、全国的に見られるそう。

 

私にとって、あの家は祖母の家なんだけれど、我が子はそこを、「じーちゃん家」と言う。面白いなあと思う。彼女の語りで、あの家を新しく知りたい。

 

母は17歳で私を産んで、かつ父親の方はあんまりいい奴ではなかったので、私は「実家」の子供たち3兄弟、母親の兄と弟に加わって、4番目の子のように育った。私には父親の異なる12歳年下の妹がいて、母親以上に似ている9歳年上の叔父がいる。ステレオタイプの家族構成とはちょっと違っていて、その形の特殊さも、私を作る一つの要素になったと思う。

 

結婚式のビデオレターで祖父母が「4番目の子」という言葉を使っていて、その愛に感謝すると共に、納得したのを覚えている。祖父が「幸せにならないと、許しません」と言っていた。こういう言葉遣いは、私が引き継いでいる。あなたの想定していた幸せとは違うかも知れませんが、私今それなりに幸せなので、許してくださいね。あなたのことが大好きな可愛い女の子と毎日くっついて眠っています。

 

なんの話だっけ。

 

そう、ゆっくりしてきました。

 

祖母とは子供の頃からよくぶつかるのだけど、だんだん私が大人になり、多分彼女は丸くなり、時々はお互いのリスペクトを素直に伝え合い、軽くささくれ立っても「愛し愛され認知」のパワーによって、上手にすり抜けることができるようになった。

 

気が合わねえんだよなあ、と思っていたし、未だ半ば思うのだけど、結局似たもの同士なのだ。好きなものがよく似ているし、そのこと自体を、お互いかなり気に入っている。強烈なペイズリー愛も、祖母から継いだもので(多分祖父も好きなんだよな)今回はペイズリー柄コーデュロイのジャケットを頂いてきた。

 

「死んだらちゃーちゃんのものは何もかも私に頂戴ね!」と念押ししている。言いすぎているけど、長生きしてね。皿も服も花瓶もミシンも本も調理器具もハサミも全部、頂戴ね。もちろんブラックパールもね。私が4人の中で1番頭身は遠いけど、私が1番喜ぶと思う。そう思わない?絶対頂戴ね。

 

我が家のお節は、毎年祖母が手製で用意するのだけど、誰もそれを習ってないような気がするから、来年はノート片手に頑張ろう。いつかいきなりあれじゃ無くなってしまったら、みんな悲しいと思う。何人か泣いちゃうかも知れない。彼女のお料理ソウルを最も濃く受け継いでいるのも私であろう、自信があるから、責任持って継いでおく。

 

何事も守破離。いつかは私のお節も作りたいなぁ、と思う。彼女のお節が彼女のオリジナルであったようにね。

 

昨年、祖父は病気をして、ろくにご飯も食べれなくなったのだけど、モリモリ食べられるようになっていたから安心。ちょうどよく痩せて、必要以上でもなくて、寧ろかっこよくなっていた。

 

自宅に帰ってきた次の日に、氏神様にお参りをしに行った。子供に着物を着せ、お焚き上げの品を集めていた時、「ことしのおねがい、なににしようかなあ。あっ、まえにしたおねがい、かなっちゃったね。」なんて言い出すから、なんだったっけかな、と聞いてみると、「じいちゃんがげんきになりますように、って。すずみがおいのりしたから、かなったんだね!」だと。

 

そういえば、祖父の病気がわかってから、神社仏閣どこへ行っても、街の合間にあるような小さな杜にも、手を合わせて祖父の健康をおねがいしていたのだった。あなたみたいな可愛こチャンにお願いされたら、叶えてやるしかないもんね。ありがとうね。

 

実家から帰る日、電車を待つホームで口角を下げに下げて目はトロトロにしていた子。私が、線路を挟んで向こう側、改札からロータリーに降りていくエスカレーターの窓に手を振る祖父を見つけて、必死に「見て!窓!じいちゃん!見える!?窓!あっち!!」なんて急かすから、二人ともドキドキして、泣けてきてしまって、「ママも泣いてるじゃん」と言われたな。

 

「死にたいとまでは言わないけど、生まれてこなくてもよかったな」なんて、思うことがあったりしたけど、家族との時間を惜しみ出すようになって、いよいよ、私の生にも価値を感じざるを得なくなった。私の命あっての、彼らとの時間だからね。母へ、ありがとう。

 

今年の抱負ってやつを書こうと思って、iPadを開いたんです。話が長い。

 

言ってる側から、去年の抱負の話します。手短に。ええと、一昨年と去年は「散財」です。友人の一人に「地獄かよ」と言われました。わかりません。お金を使うのが不得意なので、使うことに慣れようと思い、実行し、遂行しました。で、完全に貧乏の入り口まで来たので、打ち切りです。終わり。

 

今年の抱負は「パンが焼けるまで待つ」です。

 

祖父母への愛を語っていたら、指先まですっかり冷えました。寝ます。

 

 

 

陰気さの責任は自分で取る

 

 

文章を書くのは楽しいね。

楽しいだけで上手くはないが、まあ金を取るような事はしてないので知らん。

私のお喋りは、ただ思いつくままに言葉を出していくので、まとまりがない。「なんの話してたっけ?」が万年流行語大賞である。(友人によって、一緒になって「なんの話だったんだっけね」と笑ってくれたり、「◯◯の話」「◯◯まで聞いた」などキチンと戻してくれたり、返しに個性が見え面白い。前者のようなタイプは、ヤサシィと思うし、後者のようなタイプは脳の作り!(宇宙猫顔)と感心である。友人の1人に、本当に寸前(正に本題からずれてしまった話題)の内容を指して答えてくる人がいて、「なんの話してたっけ」に対してあまりにもトンチが聞きすぎているので、毎度笑ってしまう。そういうことじゃねえよ。と思う。好きです。話をそろそろ戻そう。)文章も同様のようで、先のブログを読み返してみたら殆どマジカルバナナだった。

マジカルバナナを人とやったことがない気がする。まぁじぃかぁるぅばぁなぁな!※の時点で、ちょっと、しんどいもんね。それを平気で言えた人生ならば、、、、あ、いや良いんだ、私は自分の事をそんなに嫌っていない。ただやっぱり※に悪意は強いよね。やな感じ。こういうところを可愛いと思ってもらえないならもういいです。

とにかく、正直、マジカルバナナのルールをあんまり知らず例えてしまったんです。連想ゲームだと思ってる。そうだよね。

我流孤独連想ゲーム式日記がもっとどんどんやりたくなって、メモに下書きしてはいるんだけど、何度書き直してもうっすら陰鬱な空気が漂ってしまうので、更新できず。

別に(陰気ワード)私のブログが陰気だろうと誰かを困らせるわけじゃないから、いいのだけれど、私が自分で読み返したときに、あまりにも、だとね、ちょっとダルいので。

 

人生のコンサルタント(重)に「明るいテーマください」と相談しましたら、

さきちゃんが書けそうな明るいテーマ考えたけど、下ネタ以外思いつかない、ごめんね」

「ぜひ第3回くらいで「バルーン現象とチンロス現象」について書いてほしい」

とのことでしたので、「やるかぁ」と返しました。「やるかぁ、じゃないよ」と収めていただけて本当に嬉しかったです。来年もよろしく。

 

陰気と言いますか、捻くれたと言いますか、そういう明るくない部分が、私の芯の部分の近くにある。

もうこの年になると、その由来やら対処法やら、なんとなく整理はついているので今更酷く困る事はない。

ここ数年、特に子供を持ってからは、そういう薄ら暗い部分も、便宜上ある程度は愛していかなくてはならなかったりしたので、そのことについて今日は書いてみたいと思う。

未だ、心底愛でることはできていない。誰にとっても、そういうものだと思う。だからこそ早々に文章にまとめておきたい。やはり、思うまま、になるが。

人それぞれ、人生それぞれ、なので、どんなに会話を重ねても、一緒に酒を飲んでも、一つ屋根の下で暮らしても、結局のところ、他人についての理解は客観性の内を超えない。

誰よりも大きな声で「まぁじぃかぁるぅばぁなぁな!」を叫んでいた人達にも、その人生なりの苦労はあるのだと思う。

 

私は片親育ち病気持ち、なので、わかりやすいカードで陰気を示せるだけ楽かもしれない。

両親が揃っていても、至って健康体でも、裕福でも、美人でも、手足が長くても、頭が良くても、そうではない部分が抉れてるとか、そうだからこその気苦労や不幸はあるのだから、簡単に人を僻んではならない。し、自分の暗い部分を集めてポーカー気分で大見得切ってもいけないね。

以前は(今も時々)自分の好きになれない部分を全部、自分で選択できなかったなんかしらのせいにし、それを人に露見することによって、免除を受けたがっていたように思う。出来るだけ分かりやすく、誰かの言葉で答えを出して欲しい。そんな、浅ましさ。

 

だけれどね、私よ。

ぐじぐじ言っても仕方ないよ。わざわざお化粧して会いに来て、一緒にご飯を食べてくれるような人間の情に頼り切ったり、それを疑ったりしてはならないよ。己の陰気さの責任を、他人に取らせるな。彼らが私を「甘い」などと責める訳ないんだから。単に優しいだけではなく、そんなのそもそも面倒だよ。

まだボロが出るけれど、こういうことは、かなり前からゆっくり意識し、自分のことを気に入っているような素振りで生きようとしてきた。陰気さの責任は自分でとる。

初めは本当にフリだったが、だんだんそれにキチンと理屈をつけて、ひとつひとつ「良いのだ」と落とし込む事も出来ていった。

 

私は私の顔が、それなりに好きだ。(出会った全ての人の顔を好きになるので、意味合いは特殊かもしれない)今では、である。長いまつ毛はよく褒められるし、大きな目も、すらっとした体もチャームポイントだと思う。

私を17で産んだ母は、同級生のどの母親よりも若く、その上美人だとよく褒められた。その母によく似た部分は、それなりに、やはり気に入っている。

 

人よりまつ毛が濃く長いという事は、全身脱毛に金がかかるという事だ。都合よくお目目にだけ沢山毛が生えてる訳じゃない。まつ毛エクステはいらぬが、全身脱毛には人より時間がかかるだろうね。でももう、指に毛が生えてるからなんなの、と思い始めて(人生のコンサルタントからは、毛は処理しておけと言われる。彼女は大体いつも正しい。正しいというか、私にとって、本来理想的な提案をしてくれる。参考にするかは別として。)放置している。憎むのも飽きた。腕に毛が生えていると、ノースリーブを着たくなくなるし、足に毛が生えていない方が、異性とベッドに入った時に変な汗かかなくて済むけど、このまま、「まつ毛が長いおばあちゃん」になれたらば、かわいいだろう。みんなマツエクから卒業した頃だから、ようやく旨味がでてくるよ。老人ホームでモテよう。

大きな目は、三白眼が怖いと人に言われたことを未だ根に持っているし、痩せた体は貧相にも見える。老けても見える。母も私も内科で「カロリー爆弾ジュース」を処方してもらったりする。美味しいの限界を超えるほど食べなくては、健康的な体を保てない。太りやすい人に僻まれるようなことじゃあない、私もそちらの苦労は知らないが。

その他、もろもろ、いくらでも挙げることはできるけど、面白く話せないので以上とする。

ルックスの美しさは数値で測れるようなものではなく、せいぜい黄金比とやらこじつけは出来ても、正しさなどない。(ここの話は私の職に関わるので、また別に記すとする。)

誰が誰を羨ましく思おうが、誰が自分に自信を持とうが、誰にも否定はできない。私にも私なりの無い物ねだりがある。私の友人は皆それぞれ抜群に美しいが、彼女らにもなんかしら無い物ねだりはあるだろう。ルックスに限らず、得手不得手、精神、環境、なんにでも。

ただ、それをわざわざアウトプットして、人からの言葉を待つのは、精神の搾取だと思う。返答する側はきっと、かったりぃよな。美しい友人らは、あんまりそういうことを言わない。それはルックスが美しいからだけではなく、自己肯定感が高いからでもなく、他者への思いやりと謙虚さ故だと思う。習って、私も、出来るだけしないようにしたい。(友人へ してるよね、ごめんね、いつもありがとう、でもこれからはもっと気をつけてく2023

 

「自分のことが好きだと思ってた」「どちらかというと自信家に見えるタイプ」など言われることがある。

そういう風に見えたのならば、それは、私があなたを尊敬しており、少しだけ緊張して、出来るだけ立派であろうとしているサマです。あなたに追いつこうとしている。取り繕っている。30目前にもなって。ただしちょっと無様な感じなのだろうと思う。ダサいだけで悪意はない。許してもらいたい。

出来ないことも多い。もう、寒い部屋で指がかじかんで、いつまでも打っていたくないから、いちいち書き記さないけれど、本当に、苛立つほど、ダメである。主観的な評価でしかないけど、「クソポンコツ」である。

出来ないことだけではなく、やっちまうことも多い。最悪なのだ。恨めしい過去も、恥ずかしい思い出も、人には言えないようなことも、沢山ある。閻魔大王に「人生迷惑かけポイントカード」とかって見せるのかな。さすがに詰む。老人ホームでモテるところまでがこのカルマのピーク。

でも、それだからこそ、子供と毎晩お風呂に浸かって同じ布団で眠り、チャーミングな友人と美味しいご飯を食べ、楽しく働き感謝され、家族にプレゼントを送って生きていられていることが、非凡であると、喜ぶことができる。

「(こんなにダメなのに)天才じゃん」「ママって天才?(一周回って)」

と自分のことを、騙し騙し、大胆に、チヤホヤし続けていたら、洗脳パワーで周りにもすぐ天才と言ってもらえるようになったし、子供も真似して、すぐ自分のことを天才だと褒めるようになった。それで良い。

私自身も、ここのところ本格的に調子に乗ってきて、心底、自分のことを褒めてやっている。陰気120%の日もある、でもバランスよく生きている。よくやってるし、要領もよい。生きるセンスがある。

こうでないと、子供など育てられない。自分を嫌ったままでいるということは、愛しい子供をろくでなしの人間(己)に育てさせるということなのだから。

甘く美しく大きな桃を採りたいからって、果実ばかりに水をかけても仕方あるまい。根っこや葉の調子次第なのだ。養分が幹を伝ってようやく実が膨らんでいく。

 

己のことを、だめだなぁと甘やかし可愛いがり、天才だなぁと思い込んで生きた2022年。結局、最後の最後に私らしいやや陰気な(やや躁の気もあり)ブログを更新することになったけれど、これだって、私が私の陰気さを可愛がれるようになった結果である。

私が私のことを、28年間のどの月日よりもずっと好きになれて、本当に良かった。

友人たちは、私と子供が2人暮らしになってから、それとなく、他人とはまた違う深さで我が家に接してくれている。ような、気がする。彼らの精神的な美しさに影響され、多々気付かされた一年。

また、最愛の子供が、時折私に似た部分を見せてくれたことによって、新しく自分を好きになれた部分もある。ありがとう。

 

陰気なことは、悪くない。ただし、陰気さの責任を、他人に取らせないこと。

出来るだけ機嫌良く、自分を抱いて生きること。

 

 

 

 

ヒト以外の他の生き物は、時間というものをどんな風に認識しているのかな。

 

私は人間社会で生きているせいで、あくびをすれば5秒、パスタを茹でれば7分、今が過去になるということを知ってしまっている。

理論は知らん、天文学なのかな、何?分からない。でもそうなんだって。

 

生きることと並行して、平等に時間は進行しているらしい。

 

別にそんなことはないのに、どちらかというと、過ぎ去った時間や過ぎ去ることはネガティブ、未だ来ぬ時間をポジティブと捉え易く、いつも、ほんの少しだけおっかない思いをしている。

 

1歳半なのに未だ歩かない、とか

2年生なのに九九が言えない、とか

三十路もすぎて彼氏もいないのか、とか

60歳までに貯蓄2000万、だとか、ね。

 

1歳でもう足取りがしっかりしてるね、1年生で九九が言えるの、そういう明るい使い方より、不安や批判に用いられる方がずっとヘビーだ。

 

時間が明確に区切られていることで、大変厄介です。どうでもいいよ。

 

今この瞬間だって、どこかに在るような無いような理想に追いつけず、迷子の子供のような心許なさで過ごしている私、計画的に未来を進んでいく余裕などあるわけない。

さっきまでいた時間だって全部曖昧に溶けていって、掴みようがない。

 

鮮やかな緑のスカートを、ずっと年上の、名前も知らない女性に褒められたこと、私の浅はかな言葉選びで人を傷つけたこと、朝、ベッドの中で、両手を首に回して抱き締めてくれた子供の匂い、レストランで感動して、いつかおうちでも再現しようと思っているサラダのレシピ、その全てをそのうち忘れていってしまうのだな。

 

抱えて生きていきたいと思う記憶を、知らぬ間にどこかに落としてきてしまっても、後からそれを悲しむことさえできないのが、寂しい。

 

具体的に私の精神性や体のどこかが抉れるわけでもなく、平気で生きていけるのだけれど、なにか勿体ないことをしている気分で心地悪い。

 

ので、

 

怖くて後ろめたくて、時々SNSに呟いておく。

 

が、

 

私はアウトプットの中毒で、何でもかんでも軽はずみに呟いてしまうので、(自己顕示欲の鬼、どうしたんだろうね、心配だよね。ミステリアスな方が、余白があって美しいよ。でもなれないのね、かわいそうに。)

 

それはジュエリーケースに指輪をしまう手つきの、丁寧で洗練された記録の様子ではない。

 

区から届いた封筒、光熱費の支払いの紙、友人の結婚式から持ち帰ったお品書きなど

とりあえず一緒くたにまとめておいた「大切後回しボックス」の如し。どうしようもない。結局、適当にpostして雑にpastするわけだ。人生そのもの。

 

話が長い、下手で可愛い、つまるところ、ちゃんと閉まっておきたくて、日記にしようかなって。そう、話長いし、面の広い媒体じゃないと困るんで、呟きではなく、日記にする。無意識の中で記憶が管理されているということが、いい加減耐えられん。

 

私は私の表現を信用できないから、写実的に、つまり写真で残したかったんだけど、優柔不断でカメラを選べない上に、奮発して買って早速落として壊して自分を嫌いになる未来が予知できるので、諦める。

 

少しだけ英語が得意だった高校生の私に、「スチュワーデスになったら」と祖母が言った頃、祖父が一度「写真の学校に行ったらいい」と提案してきたことがある。

 

呟くような軽やかさだったので、「おじさんくさくね?」などと思っているうちにふわっと通り過ぎてしまった。悪くない意見だったね。

 

今思えば、私はどちらもきっと気に入ったし、それぞれ、祖父母がリスペクトする職業だったのだと思う。ロマンだったのだと思う。立派なCAになって、祖母をフライトの旅に連れて行きたかったし、小さな個展でも開いて、祖父を招きたかったなと思う。

 

こういうことを考えると泣きたくなるな。

 

4月、祖母の誕生日がきたら、旅行に行こう。

 

それと、やっぱり考え直して、身分相応のカメラを一つだけ、買おうかな。あえて、じいちゃんにねだってみようかな。

 

ちなみに祖母の提案に関しての感想は、「地上でも働きたくないのに、なんで空まで上がって働かなきゃならんのだ」でした。

 

あんたはまず地に足つけろ、話はそこからなんだよ。そんなこんなで今の私は全く英語が喋れない。

 

自分の不器用さ(大意)を嫌いすぎないために、天真爛漫ぶって生きることで程よく許してきた人生。それ故、人に迷惑をかけたり、無理をしたりしてしまった気がする。

 

できるだけ人にも自分にも誠実でありたいから、ここにはなるべく感性そのまま、記録できたら良いと思う。

 

日記など、メモに書いておけばいいでしょうに、わざわざ人に読ませたいんだね。

 

どこか、些細な部分が、幸運にも他人に気にいられて、少しでも愛されたいのだと思う。分かるよ、でも大概にして欲しいよ。そんな事のために裏腹な文章を書かないよう、気をつけようね。

 

そういえば、かつての私は「全人類に愛されたい」かつ「全人類愛すべき」とも思っていて、尊敬する聡明な友人たちにそれは違うと指摘してもらったことがある。あの時、そうだよね、と分かったフリをしてごめんなさい。当時の半分くらいの熱で、未だそう思ってます。

 

今日はこれから、銭湯に行ってくる。20代の終わりに、「いつもの銭湯」の存在は精神的にも暖かいものだったので、そのうち記録しようと思う。