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明石家さんまのご長寿なんたらみたいな番組ありますよね。あれの、 おじいちゃんおばあちゃんが、かつての自分にメッセージ送るやつ好きなんですけど、 あれみたいな気分で日記を書いてます。投稿してから3日間は校正期間。

スーパースペシャル

 

1年生

初めての担任は、丸い輪郭に大きな丸いメガネの、タレ目の印象のそのままに、優しい女性だった。その当時は、オバアサンだと思っていたけれど、実際のところオバサン程度だったと思う。

 

ダジャレが好きで、調子に乗りすぎた男子の頭をニコニコ笑いながらパーンと叩き、誰もグレようがなかった。ほやほや小学生特有のウザだるい絡みをしても、歌うように「知りません円二千円」と言って無視するだけで、全く困ったそぶりもしない、ベテランだった。

 

愛されている、と感じた。とっても。あんまり彼女と話した記憶まではないのだけど、手が分厚くて、暖かかった気がする。私を後ろから抱きしめてくれたことがあったと、思う、なんとなく。「あなたは困った子だね」という態度を隠さず、それでも「可愛い可愛い」と、そんな顔をしてくれている、記憶がある。私はそういう風に接してくれる人が今でもずっと好きである。ぶりっ子のような要領で、必要以上にダメぶってしまうことがある。正面から可愛がられるタイプではないのだから、許してくれたら良い。羊水の中のような心地の先生だった。

 

2年生 3年生

学校の記憶はほとんどない。

一階の廊下で女性の先生に、「あなた、アンニュイね」と言われたことだけ覚えてる。帰って、辞書で調べた。「アンニュイもなにも、わたし、疲れてる」と思った。1年生の時も、ため息ばかりついていることを注意されて、「幸せが逃げるわよ!」と言われるたびに、「まさにそのセリフが嫌」だった。

 

学童に行っていた。小学校から学童への帰り道は、私とKくんとYくんの3人で歩いた。

後ろの校門を出て、左手に進む。学校の敷地と、それに並行して作られたトンネルとの間の小径。派手な花や木などなく、ひたすらに季節の雑草が茂る。蝶々が舞い、バッタが飛んでいる。

低いコンクリート塀が続くので、私たちは乗ったり降りたりして進む。

春、紋白蝶が遊んでいたので、私はいつもの2人に「蝶を捕まえて。早い方の勝ちね。」と威張った。

Kくんのことも、Yくんのことも好きだった。当時の好きがどのような色なのかはわからない。でもその時「先に捕まえた方のことを、もっと好きになるだろうな」と考えたのを覚えている。

Yくんがすぐに捕まえた。Kくんはヤンチャっぽいけれど、穏やかでもあった。意地になって勝とうというタイプではなかった。

Yくんが目の前にやってきて、「はい」と、重ねていた手のひらの上側をそっと開いた。

確かにそこに目当ての蝶はいたけれど、羽は引き攣り、彼の手相は鱗粉で真っ白になっていて、とにかく、静かに、酷かった。「いらない」とだけ言って先に歩き出したけど、ひんやりとして、本当は走り去りたかった。

Yくんは男まさりで、ちょっと悪ぶったところがあったけど、繊細で優しい奴だったので、きっともっと怖かっただろうね。ごめんね。

授業でYくんが書いた、お母さんの足がぶっとい、というような詩、他の子の書いたどの詩よりも、ダントツで好きだった。添られた母の絵も好きだった。賞を獲ったのは、私。

 

トンネルをくぐった少し先、学童の手前に、枇杷のなる家があって、よじ登って盗み食いした話、書いたっけ。3人で。しっかり怒られて、その後枇杷のお土産をもらった。あれ以上に美味しい枇杷を食べたことがない。重たく膨らんで、かじるとびしゃびしゃ汁が垂れた。おじいさんだったか、おばあさんだったか。もしかして、もう生きていないのかもしれない。枇杷がおいしかったです。20年以上経っても忘れられない。ありがとう。

 

学童で1番大好きだった、くみ先生を思い出す。ふっくらとしていて暖かくて、目は頬に向かって落ちるわずかな切り込みだった。千と千尋の神隠しの、「いつも何度でも」の簡単な弾き方を教えてくれて、問題児の私のワガママにニコニコと付き合ってくれる仏のような若い女性。2年生の時、いつもの癇癪で、キッチンの包丁を自分の胸に突きつけて「これで私が死んだらくみちゃんのせいだからね、くみちゃんのせいで死ぬんだよ!」と大声をあげた。

先生は泣いて、確か数日のうちにいなくなってしまった。もう重たい私を、せがんだらせがんだだけおんぶしてくれた。いつもケミストリーを歌ってとリクエストして、背中越しに聴いていた。声が綺麗だった。

大好きだったのに、ごめんなさい。

私の居場所も当たり前に無くなって、学童をやめて家でママを待つのは寂しかったです。とても良くしてくれたのに。でもとても良い人だから、私のような馬鹿以外からはちゃんとお返しをもらって幸せになっているといい。それが必然であろう。私のことを忘れていますように。

 

学童は、たしか3年生になる前までには辞めてしまった。学童の子は時々裏山や学校まで遊びに出かけるのだけど、私がちょっと出かけた日、楽しみにしていたおやつのスイートポテトが「残り物じゃんけん」で片付けられていて、「もう辞めてやろう」と決めたのだった。今考えてみれば、そりゃあ、「さきちゃんの分じゃない?」などと、誰かが言うわけない。当時も、ふわっとそんなことを実感したのかもしれない。その日のおやつがスイートポテトだったから、だと思い込んでたけど、寂しかったのかもしれない。

 

Kくんは私より長く学童にいたと思うけど、、途中からヤンチャっぽさがなくなって、笑顔も減って、つまらない男の子になってしまった。それが寂しくて、寂しくたってどうしたら良いのかまだわからなくて、苛立って、毛布にくるまり抵抗せず黙る彼に向かって何度もボールを投げつけたりした。

彼の弟が毛布の塊の前で大の字に立ち塞がって、「やめてよ!!!!」と泣いていた。色白で切長の目の兄と対照に、浅黒くて、目が大きく、涙と一緒にこぼれ落ちそうだった。それもこれも全部、ますます私を苛立たせて、混乱させて、逆効果だった。きっと当時、彼らの環境に何か、あったのだろう。言い訳がましいけど、私の環境も、安定したものではなかったから、そういう機微に鈍感だった。本当にごめんね。ごめんなさい。

 

 

4年生

涼しげでシャープな顔立ちの女性が担任になった。

途中でご懐妊。お腹が大きくなっていくのをクラスで見守った。もう生まれちゃうんではないか、こわくなる位の大きなお腹で、まだ教卓に立っていた。

その先生に、一度、蹴りをくらったことがある。くらって当然。物を盗んだんです。病気であんまり学校に来られなくなった子がいて、その子が先生にあげたお土産。オレンジ色の小さな巻き尺で、クリアオレンジのイルカのチャームがついていました。そんなものいらなかった。別に欲しくなかった。その子のことが羨ましくって、羨ましくて?わからない、どうしてか。とっても活発な女の子で、男の子にも女の子にも人気で、誰にでも優しくって、嫌味がなくて、私が時々話しかけたりしても、1番仲良しの子と話す調子と変わらずに返してくれた。

その年に亡くなりました。私は地獄に落ちるだろうね。地獄に落ちた方がいい、彼女と顔を合わせられないもの。ごめんなさい。どうして。それでもきっと彼女はまだ、私にだって優しい。優しい女の子、のままで、死んでしまったんだもの。どうして。

父母参観で、親子陶芸の授業があった時、我が家だけ誰も来れずに、先生とペアで作ることになった。とてもとても優しくしてくれた。後ろめたくて、嬉しくて、難しかった。開いた新聞紙の前に横並びで座って、ずっと、生きた心地がしなかった。

 

 

5年生

目のぎょろっとした艶々油っぽい、派手な顔の男性が担任になった。

顔の通りに、声も大きく、文字も大きい。きっと性善説を信じているような、人です。

新しいクラスになってしばらくして、係決めをすることになった。先生は、黒板の右から縦書きで係りの名前を並べていき、その最後に「前澤はこの特別にこの係に任命する!!」と元気よく声を張り上げながら「SP係」と書いた。「スペシャル係とは、先生のお手伝い係だ。なんでも、先生の手伝いをしてもらう!」と言っていた。意味がわからない。

運動会の参加種目極めで、体育係から早々に「前澤は玉入れな!」と言われることはあったけど、係決めまで決め打ちされると思ってなかった。誰も反対はしなかった。

 

プリントを配ったり、ノートを集めたり、先生の肩を叩いたりした。やることはチョロかったし、もともと人と何かするのは苦手なので助かった。今思えば、私の発達の性質にいち早く気づき、考え、あくまで教室内で責任を取れる範疇で、支援してくれていたのでしょうね。

そうだとすると、ネーミングの「特別」というのは直接的すぎるがね。普通学級の中の、特別支援学級ならぬ特別支援生徒、のための、係。

 

名前を呼ばれることが多かった。こもらず広く響く、太く重い声、だが明るい。眉を上げて、まっすぐこちらを見て呼んでくる。強く、絶対的で、気持ちの良い先生。

サッカーの授業で、先生が思いっきり遠くを目指して蹴ったボールが、目の前に立っていた私の顔面にまっすぐブチ当たった時があって、その時だけ少し嫌いになった。幽霊になってしまったのかと思った。だって、目の前にいたのに。普通、先生の挙動を読んで、当たり前に避けれるような、ものだったのかな。年度の途中で、苗字が変わった。父親の違う妹が生まれた。彼が担任でよかった。気にかけてくれてありがとう。

 

割と仲の良かった女の子が3人いた。

お互いの家に遊びに行ってシールを交換したり、毎朝登校直後に開催される謎の朝マラソンを揃って走っていたりしていた。(TOKIOAMBITIOUS JAPAN!を繰り返し聴かされる、朝からうるせえよという気持ち、に、反して、ちょっとノって走れてしまう嫌さ

 

高学年になると女の子は狡さ卑怯さを身につけていく。

集まる時に誰か1人欠けたりなんかすると、「その子には秘密にしよう」だとか、「うちらだけでお揃いにしよう」だとか、そういうことを言い始める。なんのために?考えたくない、難しい。きっと生物学で片付くんでしょうね。必要な成長なのでしょう。私たちももれなく、そうだった。

 

お友達がいた、といっても私はずっと陰気な人間だから、小学生の頃から学生生活が終わるまで一貫して、学校が終われば基本直帰し、手も洗わずベッドに上がり、天井のひじきみたいな柄を眺めながら、母が帰るまでひたすら思考する、そういう夕方を過ごしていた。

 

ある夕方、西陽が強かったので、きっと夏のこと。ベッドの中でふと気づいた。

あぁ、あの子がいないときはあの子の悪口、その子がいないときはその子の悪口を言うってことは、私がいないときは3人揃って私の事散々言うんだ。

みんなそれでも平気なんだ、次の朝になってニコニコするのね。対して嫌いでもないのに悪口言って喜んで、対して私のことも好きでもないのに一緒にいるんだ。私それ、耐えられないな。

 

それで、日が暮れる前に決心して、翌日、謎の朝マラソンで集まった3人に言った。

「もう私のこと、友達だって思わなくて良いよ。もう遊んだりしない。」

(関係ない話だけど、今日あみちゃんと電話したら、あ、あみちゃんね、生きてたよ。私のこと、良いところは見た目だって、性格で評価などつくことないって言ってた、「気難しいじゃん」って言ってた。嬉しいな。鼻が可愛いって言ってた。私のこと愛しているらしい。やっぱりこういうひとが好きなんだよね、私は。)

 

当たり前に、抵抗などされずに、あっさりと「お友達」が終わった。

あんまり困らなかった。体育のペア組みだって、口下手な子とか、体型がはみ出す子とか、いくらでも残っているもの。もちろんその「はみ出し組」にも知恵はあって、彼らは彼らなりに組合を持っていたりするから、それさえ苦手な私は、生徒数が奇数の日は先生とキャッチボールをすることになった。別にいい。私は何をやっても下手なんだから、先生と組んでおいた方が自分のためにも周りのためにもなるのだ。

修学旅行のグループ決めは、保育園から一緒の学級委員の男の子が「一緒のグループで良いよな」と加えてくれたんです。ちゃんと、余る前に、余って私が目を泳がすようなことがないように、すぐに、加えてくれました。ありがとう。

 

 

6年生

の時の担任は、目が切れ長で細くって、間延びした面長に、どえらいインパクトのたらこ唇。嫌なやつだった。

 

彼は私のことが大嫌いだった。私が彼を嫌うよりもずっと前からである。そしてその熱量も遥かに彼の方が高かった。私の全てが嫌だったんだろう。

 

ある日夕方の準備教室に1人呼ばれて、「お前、なんでクラスメイトから下の名前で呼ばれないか分かるか?みんなお前のことが怖いんだよ。友達だと思ってない。」と言われた。たらこ唇が揺れていた。

 

そうなんだ、と思った。怖いんだ、私は、まあそうなのかもしれないな、と思った。驚かなかった。そこまで明確に考えてみたことがなかっただけで、当たり前のような気がした。

心が萎むようなことも、膨らむようなこともなく、そのまましばらく過ごして、1ヶ月ほど経ってからなんの気無しに母に言ってみた。

「さきって、みんなから苗字で呼ばれるの、それ、嫌われてるかららしいよ。私は怖いんだって。先生が言ってた。」

「いや、さきってもう1人いるじゃん。そっちも苗字で呼ばれてるでしょ。ゆうすけだって2人いて、両方苗字呼びじゃん。」

 

その通りだった。

とはいえ、もうそれなりに長い時間、私はクラスメイト全員から嫌われている、と信じ込んでしまったから、(実際それはそれとして事実だったかもしれないが)前よりも多めにとったクラスメイトとの距離を、もう今更戻すようなことも出来なかった。

 

中学2年生の時の担任も、私のことが特別大嫌いだったけれど、何がそんなに悪かったんだろう。私は特別ダメな子供だったけど、先生という立場から、私を見せ物にしてやろうとか、傷つけてやろうとか、どうして思ったんだろう。

あぁ、何もかもダメなくせに可愛らしくもなく、媚びず、むしろ威張っていて、あんたのことなんか大嫌い、馬鹿みたい、という顔をしていたのかな。そうだろうな。

 

でも、子供のことを舐めたらいけない。先生達が贔屓していたあの子だって、決して先生のことが好きだったわけじゃないよ。嫌いだったと思う。だってあなた等は嫌な顔つきの男で、嫌な汗のかき方で、説教が長いから。怒るたびに唾が飛ぶとか、唇がプルプル震えるとか、休み時間にみんなみんな笑っていたよ。私はむしろ黙っていたよ。あの子、私より早熟で賢くて、生活が穏やかで、カッコの良いお父さんに、甘えるような可愛いお母さんまで持っていたから、上手に学んで先生に媚を売れただけだよ。

皮肉っぽく聞こえるかもしれないけど、彼女は可愛くて明るくて、感じが良かった。クラスメイトと程よい調子で悪口や陰口をいうこともできた。賢いのだ。私は賢さとは遠い星で生まれたので、賢い人間を尊敬する。

 

子供の頃の私は、どこにいたって誰といたって、人一倍迷惑をかけたけど、それで平気というわけではなかった。左利きだから、とか、片親だから、とか、色々と理由をつけて納得を試みたり、「人と違うことは格好の良いことだ」と独特な理屈をスローガンに掲げたりした。髪の毛を沢山抜いたりした。爪を齧ったり。先生の言う通りに誰も私のことを友達だと思っていなくても大丈夫、な訳ではなかった。先生には分からないことだろうが。

 

みんながドッヂボールをしている間、同様にはみ出したAくんとブランコに乗る。お互い、ちょっとだけ安心感が湧くとはいえ、半ば仕方なくそうしているだけだから、ほとんど会話はない。

彼が休んだ日には一人きり教室に残って、いきものがかりが面倒を見ている鉢植えや花瓶をひっそりと自分の机に運んで、ただ眺めて過ごす。

 

蝶のことも、Kくんのことも、くみちゃんのことも、スイートポテトのことも、オレンジの巻き尺のことも、シール交換も、先生とのキャッチボールも、全部嫌だった。全部自分が起こしたことで、それがもう最悪だった。

 

私も性善説を信じたい。やっぱり悪役には背景が必要だと思う。悪役の背負った過去まで、悪事と丸ごと葬るだけの覚悟を持つ、ヒーローであって欲しいじゃん。ヒーローの栄光の内側にも、それなりの苦しみや葛藤がちゃんとあって欲しい。

とはいえ私自身はむしろ、生まれつきダメで乱暴でだらしなかったのではないか。マシに生きるために苦労したけど、今更人に与えようとしても、とっくに地獄行き確定なのにな、とどこかで思って生きている。でも、シザーハンズのような手で、どうやって愛されろというんだろう。あんな小さな子供に。

 

小学校生活、クラスメイトを傷つけることはあっても、誰かにひどく傷つけられた記憶はない。

ただ、先生の言葉がずっと足首に絡まりつく。抱きしめられるような感覚を残してくれた人もいる。

 

大人になったかどうかは分からないけど、年はとった。子供ではなくなった。私の言うことや成すこと、人にどういう影響を与えるか、私も責任を持たなくてはならない。大変に恐ろしいことだ。

根本的に人間は変わらない。一生その類のセンスは持てないのかもしれない。

 

私の子供も、来年からランドセルを背負う。不器用に人を傷つけて苦しむことのないように、誰かをひどく傷つけないように、傷ついて帰ってきた時に私の手が暖かい柔らかいもので在れるように、気を配りたい。

 

そういえば、6年生の係決めでは「SSP係」に任命された。5年生の担任からの引き継ぎだろう。増えたSはスーパーのS。私はスーパースペシャルになった。

 

これはたらこ唇のネーミングなはずない。本当にありがとう。