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ヒト以外の他の生き物は、時間というものをどんな風に認識しているのかな。
私は人間社会で生きているせいで、あくびをすれば5秒、パスタを茹でれば7分、今が過去になるということを知ってしまっている。
理論は知らん、天文学なのかな、何?分からない。でもそうなんだって。
生きることと並行して、平等に時間は進行しているらしい。
別にそんなことはないのに、どちらかというと、過ぎ去った時間や過ぎ去ることはネガティブ、未だ来ぬ時間をポジティブと捉え易く、いつも、ほんの少しだけおっかない思いをしている。
1歳半なのに未だ歩かない、とか
2年生なのに九九が言えない、とか
三十路もすぎて彼氏もいないのか、とか
60歳までに貯蓄2000万、だとか、ね。
1歳でもう足取りがしっかりしてるね、1年生で九九が言えるの、そういう明るい使い方より、不安や批判に用いられる方がずっとヘビーだ。
時間が明確に区切られていることで、大変厄介です。どうでもいいよ。
今この瞬間だって、どこかに在るような無いような理想に追いつけず、迷子の子供のような心許なさで過ごしている私、計画的に未来を進んでいく余裕などあるわけない。
さっきまでいた時間だって全部曖昧に溶けていって、掴みようがない。
鮮やかな緑のスカートを、ずっと年上の、名前も知らない女性に褒められたこと、私の浅はかな言葉選びで人を傷つけたこと、朝、ベッドの中で、両手を首に回して抱き締めてくれた子供の匂い、レストランで感動して、いつかおうちでも再現しようと思っているサラダのレシピ、その全てをそのうち忘れていってしまうのだな。
抱えて生きていきたいと思う記憶を、知らぬ間にどこかに落としてきてしまっても、後からそれを悲しむことさえできないのが、寂しい。
具体的に私の精神性や体のどこかが抉れるわけでもなく、平気で生きていけるのだけれど、なにか勿体ないことをしている気分で心地悪い。
ので、
怖くて後ろめたくて、時々SNSに呟いておく。
が、
私はアウトプットの中毒で、何でもかんでも軽はずみに呟いてしまうので、(自己顕示欲の鬼、どうしたんだろうね、心配だよね。ミステリアスな方が、余白があって美しいよ。でもなれないのね、かわいそうに。)
それはジュエリーケースに指輪をしまう手つきの、丁寧で洗練された記録の様子ではない。
区から届いた封筒、光熱費の支払いの紙、友人の結婚式から持ち帰ったお品書きなど
とりあえず一緒くたにまとめておいた「大切後回しボックス」の如し。どうしようもない。結局、適当にpostして雑にpastするわけだ。人生そのもの。
話が長い、下手で可愛い、つまるところ、ちゃんと閉まっておきたくて、日記にしようかなって。そう、話長いし、面の広い媒体じゃないと困るんで、呟きではなく、日記にする。無意識の中で記憶が管理されているということが、いい加減耐えられん。
私は私の表現を信用できないから、写実的に、つまり写真で残したかったんだけど、優柔不断でカメラを選べない上に、奮発して買って早速落として壊して自分を嫌いになる未来が予知できるので、諦める。
少しだけ英語が得意だった高校生の私に、「スチュワーデスになったら」と祖母が言った頃、祖父が一度「写真の学校に行ったらいい」と提案してきたことがある。
呟くような軽やかさだったので、「おじさんくさくね?」などと思っているうちにふわっと通り過ぎてしまった。悪くない意見だったね。
今思えば、私はどちらもきっと気に入ったし、それぞれ、祖父母がリスペクトする職業だったのだと思う。ロマンだったのだと思う。立派なCAになって、祖母をフライトの旅に連れて行きたかったし、小さな個展でも開いて、祖父を招きたかったなと思う。
こういうことを考えると泣きたくなるな。
4月、祖母の誕生日がきたら、旅行に行こう。
それと、やっぱり考え直して、身分相応のカメラを一つだけ、買おうかな。あえて、じいちゃんにねだってみようかな。
ちなみに祖母の提案に関しての感想は、「地上でも働きたくないのに、なんで空まで上がって働かなきゃならんのだ」でした。
あんたはまず地に足つけろ、話はそこからなんだよ。そんなこんなで今の私は全く英語が喋れない。
自分の不器用さ(大意)を嫌いすぎないために、天真爛漫ぶって生きることで程よく許してきた人生。それ故、人に迷惑をかけたり、無理をしたりしてしまった気がする。
できるだけ人にも自分にも誠実でありたいから、ここにはなるべく感性そのまま、記録できたら良いと思う。
日記など、メモに書いておけばいいでしょうに、わざわざ人に読ませたいんだね。
どこか、些細な部分が、幸運にも他人に気にいられて、少しでも愛されたいのだと思う。分かるよ、でも大概にして欲しいよ。そんな事のために裏腹な文章を書かないよう、気をつけようね。
そういえば、かつての私は「全人類に愛されたい」かつ「全人類愛すべき」とも思っていて、尊敬する聡明な友人たちにそれは違うと指摘してもらったことがある。あの時、そうだよね、と分かったフリをしてごめんなさい。当時の半分くらいの熱で、未だそう思ってます。
今日はこれから、銭湯に行ってくる。20代の終わりに、「いつもの銭湯」の存在は精神的にも暖かいものだったので、そのうち記録しようと思う。