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明石家さんまのご長寿なんたらみたいな番組ありますよね。あれの、 おじいちゃんおばあちゃんが、かつての自分にメッセージ送るやつ好きなんですけど、 あれみたいな気分で日記を書いてます。投稿してから3日間は校正期間。

陰気さの責任は自分で取る

 

 

文章を書くのは楽しいね。

楽しいだけで上手くはないが、まあ金を取るような事はしてないので知らん。

私のお喋りは、ただ思いつくままに言葉を出していくので、まとまりがない。「なんの話してたっけ?」が万年流行語大賞である。(友人によって、一緒になって「なんの話だったんだっけね」と笑ってくれたり、「◯◯の話」「◯◯まで聞いた」などキチンと戻してくれたり、返しに個性が見え面白い。前者のようなタイプは、ヤサシィと思うし、後者のようなタイプは脳の作り!(宇宙猫顔)と感心である。友人の1人に、本当に寸前(正に本題からずれてしまった話題)の内容を指して答えてくる人がいて、「なんの話してたっけ」に対してあまりにもトンチが聞きすぎているので、毎度笑ってしまう。そういうことじゃねえよ。と思う。好きです。話をそろそろ戻そう。)文章も同様のようで、先のブログを読み返してみたら殆どマジカルバナナだった。

マジカルバナナを人とやったことがない気がする。まぁじぃかぁるぅばぁなぁな!※の時点で、ちょっと、しんどいもんね。それを平気で言えた人生ならば、、、、あ、いや良いんだ、私は自分の事をそんなに嫌っていない。ただやっぱり※に悪意は強いよね。やな感じ。こういうところを可愛いと思ってもらえないならもういいです。

とにかく、正直、マジカルバナナのルールをあんまり知らず例えてしまったんです。連想ゲームだと思ってる。そうだよね。

我流孤独連想ゲーム式日記がもっとどんどんやりたくなって、メモに下書きしてはいるんだけど、何度書き直してもうっすら陰鬱な空気が漂ってしまうので、更新できず。

別に(陰気ワード)私のブログが陰気だろうと誰かを困らせるわけじゃないから、いいのだけれど、私が自分で読み返したときに、あまりにも、だとね、ちょっとダルいので。

 

人生のコンサルタント(重)に「明るいテーマください」と相談しましたら、

さきちゃんが書けそうな明るいテーマ考えたけど、下ネタ以外思いつかない、ごめんね」

「ぜひ第3回くらいで「バルーン現象とチンロス現象」について書いてほしい」

とのことでしたので、「やるかぁ」と返しました。「やるかぁ、じゃないよ」と収めていただけて本当に嬉しかったです。来年もよろしく。

 

陰気と言いますか、捻くれたと言いますか、そういう明るくない部分が、私の芯の部分の近くにある。

もうこの年になると、その由来やら対処法やら、なんとなく整理はついているので今更酷く困る事はない。

ここ数年、特に子供を持ってからは、そういう薄ら暗い部分も、便宜上ある程度は愛していかなくてはならなかったりしたので、そのことについて今日は書いてみたいと思う。

未だ、心底愛でることはできていない。誰にとっても、そういうものだと思う。だからこそ早々に文章にまとめておきたい。やはり、思うまま、になるが。

人それぞれ、人生それぞれ、なので、どんなに会話を重ねても、一緒に酒を飲んでも、一つ屋根の下で暮らしても、結局のところ、他人についての理解は客観性の内を超えない。

誰よりも大きな声で「まぁじぃかぁるぅばぁなぁな!」を叫んでいた人達にも、その人生なりの苦労はあるのだと思う。

 

私は片親育ち病気持ち、なので、わかりやすいカードで陰気を示せるだけ楽かもしれない。

両親が揃っていても、至って健康体でも、裕福でも、美人でも、手足が長くても、頭が良くても、そうではない部分が抉れてるとか、そうだからこその気苦労や不幸はあるのだから、簡単に人を僻んではならない。し、自分の暗い部分を集めてポーカー気分で大見得切ってもいけないね。

以前は(今も時々)自分の好きになれない部分を全部、自分で選択できなかったなんかしらのせいにし、それを人に露見することによって、免除を受けたがっていたように思う。出来るだけ分かりやすく、誰かの言葉で答えを出して欲しい。そんな、浅ましさ。

 

だけれどね、私よ。

ぐじぐじ言っても仕方ないよ。わざわざお化粧して会いに来て、一緒にご飯を食べてくれるような人間の情に頼り切ったり、それを疑ったりしてはならないよ。己の陰気さの責任を、他人に取らせるな。彼らが私を「甘い」などと責める訳ないんだから。単に優しいだけではなく、そんなのそもそも面倒だよ。

まだボロが出るけれど、こういうことは、かなり前からゆっくり意識し、自分のことを気に入っているような素振りで生きようとしてきた。陰気さの責任は自分でとる。

初めは本当にフリだったが、だんだんそれにキチンと理屈をつけて、ひとつひとつ「良いのだ」と落とし込む事も出来ていった。

 

私は私の顔が、それなりに好きだ。(出会った全ての人の顔を好きになるので、意味合いは特殊かもしれない)今では、である。長いまつ毛はよく褒められるし、大きな目も、すらっとした体もチャームポイントだと思う。

私を17で産んだ母は、同級生のどの母親よりも若く、その上美人だとよく褒められた。その母によく似た部分は、それなりに、やはり気に入っている。

 

人よりまつ毛が濃く長いという事は、全身脱毛に金がかかるという事だ。都合よくお目目にだけ沢山毛が生えてる訳じゃない。まつ毛エクステはいらぬが、全身脱毛には人より時間がかかるだろうね。でももう、指に毛が生えてるからなんなの、と思い始めて(人生のコンサルタントからは、毛は処理しておけと言われる。彼女は大体いつも正しい。正しいというか、私にとって、本来理想的な提案をしてくれる。参考にするかは別として。)放置している。憎むのも飽きた。腕に毛が生えていると、ノースリーブを着たくなくなるし、足に毛が生えていない方が、異性とベッドに入った時に変な汗かかなくて済むけど、このまま、「まつ毛が長いおばあちゃん」になれたらば、かわいいだろう。みんなマツエクから卒業した頃だから、ようやく旨味がでてくるよ。老人ホームでモテよう。

大きな目は、三白眼が怖いと人に言われたことを未だ根に持っているし、痩せた体は貧相にも見える。老けても見える。母も私も内科で「カロリー爆弾ジュース」を処方してもらったりする。美味しいの限界を超えるほど食べなくては、健康的な体を保てない。太りやすい人に僻まれるようなことじゃあない、私もそちらの苦労は知らないが。

その他、もろもろ、いくらでも挙げることはできるけど、面白く話せないので以上とする。

ルックスの美しさは数値で測れるようなものではなく、せいぜい黄金比とやらこじつけは出来ても、正しさなどない。(ここの話は私の職に関わるので、また別に記すとする。)

誰が誰を羨ましく思おうが、誰が自分に自信を持とうが、誰にも否定はできない。私にも私なりの無い物ねだりがある。私の友人は皆それぞれ抜群に美しいが、彼女らにもなんかしら無い物ねだりはあるだろう。ルックスに限らず、得手不得手、精神、環境、なんにでも。

ただ、それをわざわざアウトプットして、人からの言葉を待つのは、精神の搾取だと思う。返答する側はきっと、かったりぃよな。美しい友人らは、あんまりそういうことを言わない。それはルックスが美しいからだけではなく、自己肯定感が高いからでもなく、他者への思いやりと謙虚さ故だと思う。習って、私も、出来るだけしないようにしたい。(友人へ してるよね、ごめんね、いつもありがとう、でもこれからはもっと気をつけてく2023

 

「自分のことが好きだと思ってた」「どちらかというと自信家に見えるタイプ」など言われることがある。

そういう風に見えたのならば、それは、私があなたを尊敬しており、少しだけ緊張して、出来るだけ立派であろうとしているサマです。あなたに追いつこうとしている。取り繕っている。30目前にもなって。ただしちょっと無様な感じなのだろうと思う。ダサいだけで悪意はない。許してもらいたい。

出来ないことも多い。もう、寒い部屋で指がかじかんで、いつまでも打っていたくないから、いちいち書き記さないけれど、本当に、苛立つほど、ダメである。主観的な評価でしかないけど、「クソポンコツ」である。

出来ないことだけではなく、やっちまうことも多い。最悪なのだ。恨めしい過去も、恥ずかしい思い出も、人には言えないようなことも、沢山ある。閻魔大王に「人生迷惑かけポイントカード」とかって見せるのかな。さすがに詰む。老人ホームでモテるところまでがこのカルマのピーク。

でも、それだからこそ、子供と毎晩お風呂に浸かって同じ布団で眠り、チャーミングな友人と美味しいご飯を食べ、楽しく働き感謝され、家族にプレゼントを送って生きていられていることが、非凡であると、喜ぶことができる。

「(こんなにダメなのに)天才じゃん」「ママって天才?(一周回って)」

と自分のことを、騙し騙し、大胆に、チヤホヤし続けていたら、洗脳パワーで周りにもすぐ天才と言ってもらえるようになったし、子供も真似して、すぐ自分のことを天才だと褒めるようになった。それで良い。

私自身も、ここのところ本格的に調子に乗ってきて、心底、自分のことを褒めてやっている。陰気120%の日もある、でもバランスよく生きている。よくやってるし、要領もよい。生きるセンスがある。

こうでないと、子供など育てられない。自分を嫌ったままでいるということは、愛しい子供をろくでなしの人間(己)に育てさせるということなのだから。

甘く美しく大きな桃を採りたいからって、果実ばかりに水をかけても仕方あるまい。根っこや葉の調子次第なのだ。養分が幹を伝ってようやく実が膨らんでいく。

 

己のことを、だめだなぁと甘やかし可愛いがり、天才だなぁと思い込んで生きた2022年。結局、最後の最後に私らしいやや陰気な(やや躁の気もあり)ブログを更新することになったけれど、これだって、私が私の陰気さを可愛がれるようになった結果である。

私が私のことを、28年間のどの月日よりもずっと好きになれて、本当に良かった。

友人たちは、私と子供が2人暮らしになってから、それとなく、他人とはまた違う深さで我が家に接してくれている。ような、気がする。彼らの精神的な美しさに影響され、多々気付かされた一年。

また、最愛の子供が、時折私に似た部分を見せてくれたことによって、新しく自分を好きになれた部分もある。ありがとう。

 

陰気なことは、悪くない。ただし、陰気さの責任を、他人に取らせないこと。

出来るだけ機嫌良く、自分を抱いて生きること。