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明石家さんまのご長寿なんたらみたいな番組ありますよね。あれの、 おじいちゃんおばあちゃんが、かつての自分にメッセージ送るやつ好きなんですけど、 あれみたいな気分で日記を書いてます。投稿してから3日間は校正期間。

叱るということのやり方がわからない

 

 

 

昨夜子供と喧嘩をした。

私の子供は「未だ」5歳なので、29歳との意見の食い違いで争う場合は、基本的に教育や躾に分類されることが多いと思うのだけど、あえて喧嘩としておきましょう。

 

最近、人と意見が食い違う時、私はわざわざ「喧嘩だね」と定義することにしている。

理由は色々あれど、子供との場合は

・上下関係を見失っている

・叱る ということのやり方がわからない

大まかに分けると、この2つ。

 

「喧嘩だね」は煽りである。あなたを正すつもりはないよ、言いたいことがあるなら言ってきなよ。ほらかかってこい。これである。29歳。今週中に30歳になる。

 

昨夜喧嘩した余韻があるうちに、キーボードを叩いておく。なんだか分からないけど、昨日感じたことはちょっと整理しておいたほうが良いかな、と思って。基本的に私と子供の世界は我が家に二人きりで、実家が近いわけでもないから、子育てのあり方について評価されることはほぼなく、あったとして私のダメな部分に寛容かつ長所を見る目に優れている友人たちからの言葉くらいなので、「一般的な」「常識的な」「社会的な」視点で我々のことを捉える機会が少ない。

 

けれど昨日は事情が違って、喧嘩中の私たち二人の横に、私たち二人以外の人がいたので、事の最中ほぼ無視していた存在ではあれど、その視点からどう見られているのか、子との沈黙の間にちらと考える隙もあった。

 

私は私の生き方についてそれなりに真面目で頑固なので、他者に見られているくらいで言葉を変えたり態度を変えたりはしない。それでも絶妙な心地悪さがあって、それはまさに「一般的な」「常識的な」「社会的な」あるいは「倫理的な」何かに背いているのではないかという、後ろめたさだったように思う。

 

早いところこの心地の悪さを整理しないと、本日の雨も相まって一日中寝込むことになるから、考えのまとまらないうちに湯船でメモパッドを開いている。ここに書かれていることは現段階何も決定的ではない。頭で考えていることが指先から勝手に出力されていて、それを読みながらおそらくちょっと別の部分で「へぇ」と思っている自分がいるから面白い。以下、何も整理されてない生物の文章が続く予定。読むの疲れると思う。締めくくるまでにスッキリとしたら良い。雨だろうと、少しは仕事をしなくてはならないから。

 

考える前提として、我が家が「二人きりである」ことについて念頭におく。その時点でまずは「一般的」ではない。特に、子を持たない、片親に育てられていない、当事者以外にとっては、それだけでも大きく常識とは変わってしまう。それでも私が子育てについて「一般」をそれなりに意識したいのであれば、見られている相手が当事者でないからと言って、その視点を排除するわけにはいかない。難しいね。

 

一般とはなんぞや。一般的な子育て、一般的な母、一般的な家庭、なんぞ。一般とは誰が決めるのか。私の育った家庭が一般的でないことはなんとなくわかるのだけれど、私の友人の、父も母もいて、兄妹もいる、その家庭が、果たして一般的なのか分からない。なんか、つまらない議題に思えてきた。好みじゃないかも知れない。あるいは今じゃないのかも知れない。

 

ああ待って、「二人きりである」という前提だけ念頭に置いて、それ以外のことはまだ早い。まずは内側のことを見てみよう。のぼせる前に風呂から出ないと。

 

まず、上下関係を見失っていることについて。ここの意識が乏しいのは確かである。理由は明確で、私のできることと、子供のできることが大きく異なり、子供は一人では生きられないが、「全く同様」に私も一人では生きられないから、である。

 

私はお金を稼ぐ。彼女は稼げない。

私は高いところのものを取り、重い荷物を持つ。彼女は程度の限界がある。

私は数字の計算をする。彼女は程度の限界がある。

私は役場に手紙を返す。彼女にはできない。

私は食事を用意する。彼女にもできる。一人でヨーグルトにグラノーラを乗せる。十分。

私は洗濯物を回す。教えれば彼女にもできることである。彼女は自分の服を畳んで仕舞う。

彼女は風呂を沸かす。風呂の掃除をする。私はそれを面倒くさがる。彼女は私に強要しない。

彼女はスーパーで野菜や肉を選ぶ。驚くことに、私にはそれができない。

彼女は諦めることができる。人に新しい提案もリクエストもできる。私にはできない。

彼女はきっと夜一人きりで眠ることができないし、私も夜一人きりで眠ることができない。

でも二人が一緒に暮らせば、困ることは滅多にない。

 

掃除が得意で料理は不得意な男と、掃除は不得意で料理が得意な女が結婚して、お互いの強みに感謝できるのであれば、何か不都合があるのだろうか。私たちは二人きりなので、私のできない部分を甘やかしてくれる成人パートナーはいない。私は上下関係を忘れて、彼女に寧ろ子供以上の振る舞いを求めることが多い。

 

それでも、未だ、家のシステム作りは私の仕事だ。寝る時間や遊ぶ時間、役割分担、ゆるいけれど倫理的なものもその一つ。これらは守っていただかなくてはならない。それは、上下関係の上で私が指図するのではなく、パートナーとしてやってほしい。そのうち、子供がもっと、合理的な、そして二人のためになるようなルール設計をできるようになるのであれば、彼女の年齢が幾つであろうとお願いしたい。

 

しっくりこないけど、「親としての自覚」みたいなもの(知らん)が足りないのかも知れない。確かに、責任逃れっぽいような気もする。それでも、我が家のこの部分について他者から苦言があるのであれば、親として云々ではなく、私自身の丸ごとを見て批評してもらわなくては。同様に、私がこの関係性に無理を感じて苦しんだり苛立ったりした時には、まず自分の「できていない部分」を見つめる作業から始めよう。時には棚にあげて指摘しなくてはならないこともある。彼女が私の居場所から離れて、また誰かと暮らすとき、相手の不得意な部分を苦しまずに補ってやれるように。また、自分の中に不得意や無理を見つけたときに、自分の強みに自信があることで、軽やかに人に甘えられるようであってほしいと思う。

 

たった今気づいたのだけれど、私も母にそうやって育てられたかも知れない。私より責任感の強い、また、貧弱でナヨっと見えるにしてはタフな母ではあったけれど、私たちの中に上下関係を感じたことがない。常に意見を交換し、ねじ伏せられたことはない。物理的に争ったことも多々あるが、暴力を受けて育った記憶はない。

 

年齢的にも、関わりからみても、姉妹のような友人のような、パートナーだった気がする。すごく趣味が合うところもあれば、全く相容れないところも多い。私は格別に親に迷惑をかけるタイプの子供だったと思うけど、私も私なりに、内には早熟な部分もあって、彼女が幸せであれるように、自分のできることをしてきたつもりである。

 

そこには私たち親子のそれぞれの辛さもあったと思うけど、今になって私はその生活をそれなりに気に入っていたことが分かる。

 

追い焚きしないと凍死する。肩があのやたらハッピーな歌で盛り上げてくれるアイスクリーム屋さんの鉄板位冷たいし、鼻水も出てきた。胸のちょうど下までしかお湯がないから、追い焚きっていうか足し湯したほうがいい。乳首に申し訳ない。

 

あとそれと、叱るということのやり方がわからないことについて。もちろん大きな声で注意したり、時には叩くこともあります。でも、分からない。分からないことはまず調べましょう。Google行ってきます。ググるとか言わないよ、なんか恥ずかしいからだよ。

 

【叱る】 相手の非を咎め、厳しく注意する。

 

だって。怒る、だと人間一人で完結することもありそうだから、叱る、だろうね。うむ。意見の食い違いで争うことは、一般的に、子供と大人の場合「喧嘩」じゃなくて「叱る」になるのでは、みたいなこと冒頭に書いたけどさ、私の感覚では、子供相手に非をとがめるん?て感じなんだよな。なんだろこれは。自分の意見に自信がないからなのかな。もはや母親としての自分自身に後ろめたいのかな。

 

待って今度は暑すぎる。のぼせる。一旦上がりましょう。夏場ってソフトクリーム食べたくなるけど、ダラッダラ溶けて嫌になるよね。でも私は、クリーミーなバニラソフトクリームより、水分を感じるシャバっシャバなミルクソフトクリームが好きなの。その溶け方みたいなさ、汗がすごい。甘くないけどね、風呂の水で塩が作れそうな位しょっぱいよ。汚い話するな。上がるね。

 

うわーーーーーー助けてくれ。風呂から上がったら干してない洗濯物が床で寝てやがる。どうすんのこれ。

 

はい、やりました。

 

子供があらゆる間違ったことをした場合。それにはいろんな種類がある。まずは、ほんと、一般的に、ダメなこと。電車の席に靴で上がってしまうとかね。これは大きな箱だと「一般的ダメボックス」だけど、その他常識的、社会的とも言い換えられるよね。またちょっと違う角度だけど、倫理的にもダメだよね。これは、「教える」でクリア。私の好みは「次座る人が嫌な気持ちだよね」など、一般的ダメボックスのものは他者を絡めて説得するやり方。子供からしても大体「そっかあ」みたいな感じ。非を咎め、厳しく注意しなくても良さげ。わかっていて、尚やるのであればいよいよ叱る必要がある。(子供の場合、その状況になることがあまりない気がするけれど)私の場合は、声を大きくしたり、手を強く握ったり、電車から下ろしたりするのかもしれない。でも私にとってそれは、自分の語彙力とコミュニケーション能力の不足で、その行為を「叱り」と定義することに恐れがある。(ここがちょっと変わっているかも)

 

ダメなことは「親が大きな声で怒鳴るから」「叩かれるかもしれないから」辞めるんじゃ、いけない。なぜ、ダメなのか、親の説明を聞いて、「じゃあ私やっぱりしたくないかも」と思えた方が強いと思っている。

 

物を盗んだり、人のものを壊したり、こういう行為があった場合も、究極に「ダメ」なんだけど、結局理由を聞かないといけない訳で、人にものを聞く姿勢として、初めっから厳しい態度でいるのもちょっと難しいよね。相手に嘘をつかせる恐れがあるんで。

 

他にも、倫理的に間違ったこと?倫理ってなんだかよくわかってないんだけど、一般的なルールというより意味合いとしては道徳に寄っていく感じ?ええと、「(私の)倫理」の出どころは、善悪思想に由来する、精神の心地よさみたいなイメージ。正しいことをしている心地よさ、反対に間違ったことをしたときの心地悪さ。定められたルールよりももっと自分基準だよね?利他的な方向ではあるんだけど、自らも精神的に健やかに生きる上で必要な選択をするための善悪?でも結局社会的に評価されるものだよね?お気持ちに任せる雰囲気にしては外側からすんごい見られてる焦りみたいなのあるよね?にほんご大丈夫?広辞苑出てこいよ。

 

木に成った、木の実を取らせるか、取らせないか。「やめてね」と言った時、大きく反抗するでもなく「なんで?ほいくえんのおともだちはするのに。せんせいはダメといわないのに」と聞き返してくる。「誰かが世話をして大切にしているものだから。木が頑張って赤くした物だから。その実はあなたの耳と同じだから。」というと、納得し、古くなって落ちたものを拾い始めた。これが起きたのは昨日、自宅アパートに設立された小さな花壇の木の前だったので、実際には「ルール」に近い条件だったわけだけど、これが大きな公園だったり、山登りの最中だったりすると、感覚的にはもっと倫理に近づくだろう。また、その対象が、猫じゃらしやタンポポになるとどうか。

 

倫理的な問題は、大人だって容易に解けるものばかりではない。正解不正解とは別の場所にあるわけなので、「非を咎める」ような形で注意することができない。私の場合は特に、どのような事象に対しても、確実な根拠の用意がないからだ。意見もない。カンペもない。その場で考えなければ。でも、大体そういうものでしょう。だから親って大変なんでしょう。皿洗いや掃除で、手が乾燥すること以上に。

 

他に、危険を伴う間違いがある。白線を超えて歩くこと。友達の近くでレゴブロックを投げること。知らない人について行くこと。理解のないスイッチを押すこと。人が一日中忘れられないような暴言を吐くこと。ようやく、叱るという言葉が似合う(私にとっては)程度のものが出てきたね。いらっしゃい。なるほど、危険が伴うことは、叱る必要がある。

 

なぜか。

 

子供は「知らない」からである。その危険を、私たち大人は知っていて、子供は知らないからするのである。大人にとって、その危険を回避することは、倫理的な間違いとは異なり、当たり前で、明白なのだ。この時、子供と私との差は、年齢や関係性ではなく、無知と知のみである。ならば結局「教える」なのだ。教えなくてはならない。当たり前のことを、いちいち、いちいち、この容易く生きられぬ生活で疲れている日も、眠くても、他のことが心配でも、いちいち、いちいち、何度も何度も何度も何度も教えなくてはならない。使う言葉が違う、言葉を扱う能力が違う生き物に、何度も工夫して教えなければならない。その疲弊と焦りと、危険が伴うときは特にその緊急性が、人を「叱らせる」のかもしれない。私の場合、緊急ゆえに、半ばパニックなのである。その姿が、嫌なんだ。

 

叱るという言葉に、違和感、大袈裟にいうと嫌悪感も持っていたのだけど、何より大切なのは、子供が心身ともに安心して暮らす生活。危険(先に挙げたように、大意である)を伴う問題に関しては、何事も「喧嘩」と称して対等であろうとする私も、責任持って叱る、すなわち正しいことを正しいと言い切る姿勢で教えていかなくてはならないな。一通り、考える時間を持ってみたけれど、やはり、ここに書かれていることは現段階何も決定的ではない。ただ、子供を育てる上で、関係を対等に捉えることは私や私の家族の中では一つの正しさだと思えること、やはり心地の良い答えは「一般」の中から見つけられないこと、対等とは別に、叱ることが必要な事案があり、自分の中でカテゴライズが済んだこと、叱るためには対等関係の時の意識とは別の感覚が必要になることなど、見えてきたものもあったね。

 

叱るの色は、怒るの色と全く異なる。そこに相手への愛がなければ、全く成り立たないものである。そこに愛はあるんか。