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明石家さんまのご長寿なんたらみたいな番組ありますよね。あれの、 おじいちゃんおばあちゃんが、かつての自分にメッセージ送るやつ好きなんですけど、 あれみたいな気分で日記を書いてます。投稿してから3日間は校正期間。

ゴッサムシティの桜

 

 

 

書くことがないわけじゃあないんだけど、ちょっとだけタイトスケジュールな最近は、なかなかキーボードと向き合えずにいる。さらりと心地の良い文章が書ければ、私にとっても癒しとなるだろうし、このブログを読んでいる人がどうやらいるらしいので、その変人らにとっても感じが良いはずなんだけど、難しい。ゴッサムシティのアダムス家生まれ故、毎回いつの間にか薄らくらい感じになってしまうね。

 

ゴッサムシティというのは世界各地にありまして、私は埼玉のそこで生まれたんだけど、バットマンは各地に配置されているわけではないので、埼玉のそこは漫画の世界よりも更に陰気なのである。

 

産声をあげたのも、保育園も、小中学校も埼玉県ゴッサム郡。シティじゃないんかい。

 

小さなコミュニティ規模で見れば、ヒーローみたいなものはいたかもしれない。当時は発達に優れていてただ明るく、両親揃っていて育ちのいい奴、って目で見ていたけれど、彼らにも彼らの苦しみがあったはずだ。真っ直ぐ僻んで、噛み付いたりしていたね、ごめんね。

 

「地元」って、生まれ育った場所、つまり単に地理的な意味でも使うけれど、人にとってはその環境にいた人間や店や時間のことを指すでしょ。己の判断ではまだ生きる場所を変えづらいような時期、上手くいったことなどほとんどなかったので、私にとって地元はモノトーン。

 

曇り空の色。自室のベットに寝そべって延々と眺めた、天井の、くすんだ白と塩昆布のような謎の模様がぼんやりと混ざり合った色。

 

それでも私も私なりに生まれた土地を愛していて、時々、何も持たずにふらりと帰ってしまいたいと思う。

 

春と呼ぶにはもう暑すぎる5月頃、遠い山肌に藤がかかっているのが見える。フラワーパークにあるような贅沢なものではなく、中華屋でチャーハンについてくる、スープに浮く卵みたいに繊細。枇杷や桑の実が枝をしならせる。小学校の帰り、ゆうやくんとかずきくんと、人の家の枇杷によじ登って、盗んで食べた。めちゃくちゃ美味かった。ちゃんと見つかって、きっちり怒られて、帰りにおかわりを持たせてくれた。めちゃくちゃ美味かった。アダムとイブも即死する。

 

夏は蝉がうるさい。ミーンミーンと鳴くのはもうわかったから、飛び立つ前にジジッ!!!!と叫ぶのだけ辞めてもらえないか?夏はなるべく薄着で、なるべく身軽に、どこまでも歩いて行きたい。化粧なんてしても全て落ちるから、しなくて良い。髪はとりあえず括ると良い。飾らずに出かけて困るような場所はない。会って恥ずかしい人など住んでいない。地図は読めるが方向音痴なので、地元でも迷子になる。坂の上にあるのが上のヤオコー、駅前にあるのが下のヤオコー。どちらも家から徒歩15分位なんじゃないかと思うけど、なぜか上のヤオコーに辿り着けない。未だに謎である。

 

秋になると葉が色づく。いつまでも見ていたい。一本一本の樹が、一枚一枚の葉が、全てオリジナルの色彩を持つ。道端の柘榴が熟れる。かじってみたいと思う。でも怖い。湿度が下がって、静かになるような気がする。足元の写真を撮りたくなる。葉を蹴って歩く。花梨や栗は気ままに転がっている。拾って帰る。誰も怒らない、誰にもお金を払わない。東京に来て、花梨が転がっておらず、困った。高円寺駅前に出てるマルシェで見つけたら、600円位した。すべすべ肌の美人ではあった。貴方をまけてもらうわけにはいかないよね。ゴツゴツ歪で、アスファルトを転がった跡が黒く傷んだものでいいから、私は拾って手に入れたい。友人に花梨ちゃんがいるけれど、そちらは傷み知らずの人生求ム。美人である。

 

冬は最高。冷たい空気を骨骨した樹形の黒が区切る。月の美しいこと。川辺のベンチに座って、ひたすらにそれだけを見る。幹の歪みに悩みを打ち明けるような時間。冷え切った頃にようやく、何かの答えが出る。私が人生かけてブレずに愛しているのは、樹形とホクロ位。子供のことを愛そうと、他の人を愛そうと、この歴史以上になることはないと思う。川辺には誰もいない。生活の光を感じない。数本の街灯と、その時に必要な音楽で、どうにか居心地良く保てているような環境。iPodの充電が切れればいきなり酷く孤独になりそうな、そういう場所に、ジッと座り込めることのありがたさ。子供が大きくなったら、またそういう場所を探したい。あぁ、子供にとっての地元となる場所は、ここのままで良いのかしらと思う。

 

そうして長い冬が明けていく。柔らかい葉がつく前に、枝先が膨らみ始める。ベンチの上から桜が被さると、ホテルのアフタヌーンティーなど、一生諦めてしまえるほどの贅沢を感じる。電車に乗って、岩のようなカメラを担いで、誰かが見にくるわけではない桜が、それでもあんなに綺麗でいてくれるんだから、目に焼き付けたい。

 

今年は小さいけれどカメラを手に入れたから、わざわざ遥々電車に乗って見に行こうと思う。こんなに地元の春を恋しく待ったのは初めて。

 

地元の社会で過ごしてきた時間の記憶が、これから色づくことはないだろうけれど、私が一人きりで見てきた景色はこれまでもこれからもずっと鮮やかだ。今では、誰かと一緒にみてみたいとも思う。嬉しい。